top of page

山林の記憶方式-編み細工の島

An Island of  Woven Memories

山林の記憶方式-編み細工の島

三井倉庫、正式名称「旧三井物産株式会社北門倉庫」は、20世紀初頭に建造され、三井物産株式会社が使用していました。三井グループは、日本統治時代に政府と土地賃貸借契約を結び、樟脳、木材、茶畑など山林資源の開発運営事業を手掛け、「日東紅茶」へと発展させて全世界に販売しました。この時代の歴史は、台湾北部の原住民の暮らしの発展 と集落全体の移住を引き起こすとともに、これに関連する経済的な事業から派生した運送や経済活動は、間接的に大台北地区の興隆に影響し、台湾全土の交易の発展にも多大な影響を与えました。

台湾の山林は、元来原住民の居住地でした。原住民は独特な山林の記憶方式を有しています。しかし異文化が入り込む過程において、さまざまなエスニック・グループの山林の記憶方式は、相互に学習し理解し合う中で次第に現代社会のネットワークを織り成し、融合と変化を続けています。今回の特別展は、会場の運送に対する歴史的意義を踏まえつつ、物産の運送を通して山林開発の原点に立ち戻ることから始め、台湾の山林の歴史について整理するとともに原住民の古老から話を聞き、「山林の記憶方式」をテーマとして台湾の森林の原始の状態から各時代の山林管理の歴史をご紹介します。展示に含まれる隘勇線や大豹社事件から、日本統治時代の樟脳、茶葉、木材の利用およびその運送の歴史的変遷も解説します。最後に、タイヤル族が大地、森林、渓流から資源を採集する際の畏敬の念をもった環境倫理のコンセプトから、異なる時代における資源活用の状況にも答えを導き出し、ひいては参観者に台湾の山林の未来を再考させる展示となっています。

展示エリア

Exhibition area

台湾の山林は、元来原住民の居住地でした。原住民は独特な山林の記憶方式を有しています。しかし異文化が入り込む過程において、さまざまなエスニック・グループの山林の記憶方式は、相互に学習し理解し合う中で次第に現代社会のネットワークを織り成し、融合と変化を続けています。

未命名-1_工作區域 1.png

展示エリア1-台湾の山林

Gallery 1, Taiwan Mountain Forest

台湾島の面積はわずか約36,000平方キロメートルであり、地形は標高差3,000メートル以上に達する変化があります。高温多雨の気候は、豊富な生物多様性と多元的な森林タイプを形成しています。
人類にとって山林資源は、経済、社会、生態の3つの方面に効果があります。

 

経済的効果:生産原料、道具の素材、商品としての効果。
 

社会的効果:家屋の建材として、人々を安住させ社会の安定を促進する効果。
 

生態的効果:生物の生息空間として、生物の多様性を保障する効果。
 

台湾で初めて正式に山林調査が行われたのは1910-1915年(明治43年‐大正4年)ですが、当時、人力での調査によると台湾の森林率は80パーセントありました。日本統治時代、総督府は積極的に台湾の山林資源を開発し、造林と保安林の管理を重視していました。第2次世界大戦が勃発以来、山林資源の需要が高まり、大量の山林伐採を引き起こし、森林率も60パーセントほどに低下しました。戦後、国民政府が台湾を接収し、インフラストラクチャーの需要の増加により、山林資源の開発規模も更に拡大しました。

展示エリア2-山林の管理

Gallery 2, Mountain Administration

山林での生活

原住民は台湾の山林における最も初期の住民であり、伝統的に農耕、狩猟、採集によって暮らしを営み、狩猟は若い男子の仕事でした。山林資源は私的に利用されるのみで、木や竹を伐採し、農具や狩猟道具、家屋や船の材料として使用しました。

 

オランダ統治時代

オランダ統治時代、東インド会社の勢力は彰化と雲林の境界まで、また南は屏東、台東一帯まで及びました。しかし、原住民の生活様式が本格的に影響を受けた地域は台南付近に限られていました。

 

鄭氏政権時代

鄭成功は、造船し軍事利用するため、軍を派遣し山で木を伐採させたことがありますが、開発範囲は南部のみに限られていました。

「屯田政策」と「土牛溝」

1662年、鄭成功は台湾を領有した後、安定した食料供給を行うため屯田政策を推進し、漢人は次第に平埔族(平地原住民)の土地へと侵入して行きました。鄭氏政権時代に始まった「土牛溝」政策は、漢人と原住民の居住領域を隔てる政策で、境界線は牛のような形の盛り土とその隣の深い溝で示されたので、「土牛溝」とよばれました。この政策は清朝統治時代まで続きました。

 

清朝時代前期の消極統治——「屯番制」と「官隘制」

清朝統治時代、台湾への移民は増加し、漢人による開墾と生活領域の拡張により原住民の生活領域は次第に圧迫され、度々衝突するようになりました。清朝は山岳地形の掌握と社会の安定のため、石を立て、溝を掘り(俗称土牛溝)、原住民と漢人の居住空間を分ける境界線を制定し始めました。1788年になって、林爽文事件鎮圧で官軍に協力した熟番(帰順し漢化した原住民)に報いるため「屯番制」を実施し、原住民と漢人の居留域境界に駐屯地を設け、熟番に「屯丁」を任せることで、原住民と漢人が分かれて住み、その境界に「熟番」が居留するという空間の使い分けが図られました。

「屯番制」に平行して「官隘制」が発展しました。「隘」はもともと砦などの防御用建築を指しますが、台湾では原住民来襲の防衛施設としての役割を果たしました。漢人は次第に台湾の山地に分け入ったので、衝突を避けるため、清朝は開墾地主に「隘寮」の設置を要求し、募集した「隘丁」に駐在・見回りをさせました。

清朝時代後期の積極統治——「開山撫番」と撫墾総局の設置

牡丹社事件(1874年)発生後、台湾への渡航禁止令が取り消されたことで、台湾に渡来する漢人は大幅に増加しました。それに加え沈葆楨による「開山撫番」政策により、漢人による山の開墾が増え、原住民と衝突することもさらに多くなりました。

劉銘伝が巡撫を務めた時代には、土地の測量と課税の精査が最重要の任務とされ、開墾の前線となっている土地について確実に租税を取り立てる必要性から、防衛する隘丁は全て政府が派遣しました。また、山地行政の管理や原住民の行政事務機関として「撫墾総局」が設置されました。「樟脳」は当時の撫墾局の山林開発の要でした。

 

日本統治時代——「隘勇線」の拡張

日本統治時代には「理蕃政策」が行われました。ここでいう「蕃」とは、主に漢化が進んでいない高砂族を指します。日本政府は硬軟織り交ぜた方法で、山林の原住民に帰順を迫りました。日本政府の山林に対する主要政策は、清朝統治時代の「隘制」を引き継ぎましたが、樟脳、木材の伐採、土地の開墾など資源の利用に伴って、隘勇線も大規模に拡張を加速しました。

1902年、南庄事件発生後、日本政府は隘勇(監視員)に対する補助を取り消し、隘勇を警察本署の管理へと改め、高圧電流鉄条網や隘路、寮舎および地雷によって、原住民の封じ込めを大規模に展開し管理下に置こうとしました。隘勇線で原住民の生活領域を狭めていったことは幾度となく原住民との衝突を引き起こし、その中の1つ「大豹社事件」では、三峡の山間部に居住していたタイヤル族の大嵙崁大豹社がほぼ壊滅しました。事件後、大豹社があった場所は生番地(漢化が進んでいない原住民の居留区)から一般の行政区域へと変更されました。

展示エリア3-隘勇線の推進

Gallery 3, Advancing of Barrier Defense Lines  

日本統治時代初期には清王朝時代と同様に、政府の統治権は蕃界(清王朝と先住民政権の境界線)まで達していませんでした。このため総督は清王朝の旧制度を継続させ、隘勇(山間部の先住民からの攻撃に対する開拓者への安全保護制度 )により未だ帰順していない先住民への守りを固めました。隘勇線は帝国による統治権の最前線を具体的に示す象徴となり、隘勇線が前進した場所は、総督府が実際に掌握した地区を示すようになりました。1902年隘勇は公的なものとなり、民営によるものではなくなりました。隘勇は山地警察が担当し、政府も積極的に隘勇線を設置しました。1906年天皇により佐久間左馬太が第5代台湾総督へと任命されました。理蕃(先住民統治)を志し、ひとつらなりの隘勇線の推進を加速させることで、台北/桃園/新竹のタイヤル族のつながりを断ち切ることに成功しました。1910年総督府では5年理蕃計画が展開され、大量の軍隊が隘勇線の推進のために投入されました。1917年後、先住民による抵抗は次第に弱まり、日本当局は順次隘勇線を撤去したことから、山地派出所により山地の治安を担当するようになりました。

展示エリア4-植民地経済

Gallery 4, Colonial Economy

樟脳

台湾では、標高1,800メートル以下の山林にクスノキが広く分布しています。木材として使われるだけでなく、13世紀にはすでに福建省沿岸の漢人の間で煮詰めると除湿剤や防虫剤になることが知られており、移民と共に台湾へと導入されました。19世紀には樟脳を原料として合成する「セルロイド」が発明されました。当初は象牙製品の代用品とされましたが、1878年ジョージ・イーストマン(George Eastman)がセルロイドを使用したフィルムを開発、これを装填したコダックカメラによって、写真撮影の普及が一気に進みました。また、化粧品容器 、家具、映画用フィルム、文具、玩具、自動車、飛行機などにも広く使用されました。1887年以降には、樟脳から無煙火薬が発明されたことにより射程や精度が上がり、銃器は飛躍的な進歩を遂げ、戦争の武器形態も大きく進化しました。樟脳は、今日でも医療や防虫などに広く使用されています。

1918-1919年、日本政府の主導により、樟脳精製業の8社により「日本樟脳株式会社」、セルロイド製造業の8社により「大日本セルロイド株式会社」、粗製樟脳業者により「台湾製脳株式会社」が創立され、台湾樟脳の専売はこれらの大企業が担うこととなりました。

販売は、元々はイギリスのサミュエル(Samuel)商会が担っていましたが、1908年以降三井物産株式会社へ引き継がれました。1918年、日本樟脳株式会社へ再度引き継がれ、原料の伐採から製造、精製、販売までを直接管理しました。台湾における樟脳の生産量は、次第に「世界一」へと増加していきました。

1930年代に、松やにを原料とする価格の安い合成樟脳が発明され、台湾の樟脳は厳しい競争にさらされました。1960年代になると、石油化学工業の飛躍的発展により、セルロイドは石油化学製品にほぼ完全に取って代わられ、樟脳業も衰退していきました。

 

茶葉

台湾で茶葉の栽培が大規模に開始されたのは、1865年ジョン・ドッド(John Dodd)が安渓茶種を導入し、費用を貸し付けて茶葉を栽培させたことにさかのぼります。大稻埕に宝順洋行を設立し、「フォルモサウーロン」のブランド名でアメリカに輸出され、人気を博しました。1868-1895年の間に、茶葉の輸出は輸出総額の5割を占め、茶葉は清朝統治時代末期における最も重要な商品作物でした。

日本統治時代には、政府機関の力により茶葉貿易が推進されました。1898年、政府は『台湾茶業取締規則』を公布し、茶業組合を作り、大型製茶工場、茶検査所、台湾茶共同販売所、製茶試験所、茶葉指導所などを設立しました。元来の茶郊(「郊」は同業組合の意) は合併して「台湾茶商公会」となりました。政府は茶業を奨励する計画を推し進め、機械を使った製茶の導入、茶の試飲会や品評会の開催により、次第に茶葉事業の抱える問題の改善に着手していきました。

 

日東紅茶

三井物産合名会社は1896年、台湾に拠点を設立し、政府と土地賃貸借の契約を結び、山林資源を開発しました。1909年に社名を「三井物産株式会社」に改称し、マーケティングを行い、会社本部は台北駅前に移転しました。グループ内の別会社「三井合名会社」は、台湾の樟脳製造や山林の運営および製茶事業を行いました。当初、烏龍茶や包種茶を主としていましたが、昭和年間には国際市場の需要を受けて紅茶製造にも乗り出し、井の字のマークで知られる「日東紅茶」を開発し、三井合名が生産、三井物産が販売と運送を行いました。

1917年、三井合名は製茶工場の建設を始め、三峡から大埔、挿角間にトロッコ鉄道を敷設しました。トロッコ鉄道と台湾総督府鉄道の接続によって、茶葉を迅速に台北築地町の台北仕上げ工場へ運び、茶葉の精製や包装作業を行うことができました。三峡の山間部に拠点を構えた後、三井合名は引き続き三峡、新店、大渓、石碇、苗栗など台湾北部 の山間部各所に製茶工場を設立し、範囲を拡大していきました。

 

木材

台湾は熱帯から亜熱帯に位置し、面積は大きくありませんが山がちで、標高1,000メートル以上が全島面積の46.7パーセントを占め、3,000メートル以上の高山は268座あります。日本人が1916年に行った統計調査によると、森林植物帯の被度は全島面積の81パーセントを占めていました。台湾の山林は、低標高の熱帯林から、暖帯林、温帯林、寒帯林など、多様な特徴を持っており、さまざまな樹木が資源として利用できます。しかし清朝統治時代には、限りのある伐採技術や「土牛線」による制限などのため、漢人の移民は、台湾で利用価値のある木はクスノキしかないと考えていました。

1907年から、日本の機械による製材工業が導入されました。1910年、総督府は阿里山において伐採事業を開始し、続いて八仙山や太平山の木材資源も開発しました。政府の出資により森林鉄道やロープウェイが敷設されました。林場は官営で、民間業者も官有林野地で伐採を請け負うことができましたが、規模は大きくありませんでした。1937年、日中戦争が勃発し、台湾の木材は事業統制を受けることになり、1943年にはさらに台湾木材統制株式会社が設立され、伐採、輸入、販売を管理しました。官営林場は台湾拓殖株式会社へ託され、木材の取引は軍需優先とされました。

 

三井財閥と林業

1901年、奈良県出身の土倉龍次郎(1870-1938)は新店亀山に苗畑を作り、造林を始めました。スギ、ヒノキ、クヌギ、アブラギリ の苗を植え付け、翌年の植樹数は160万株を超えました。1907年に三井合名会社へ譲渡され、三井は亀山で造林事業を開始しました。同時に、三井物産設立の初期から、木材は主要な販売商品でした。1910年代に台湾の材木伐採量が次第に増加すると、三井物産の協力で、嘉義営林所、花蓮港木材会社が海外市場に向けて「台湾材」を販売しました。

1936年、台湾総督府のほか三井、三菱の両財閥および製糖業を運営する会社が共同で「台湾拓殖株式会社」を設立し、社長は三菱商事より加藤恭平が就任しました。具体的には日本の対外拡張のために必要な事業を主とし、台湾島内においては土地の開墾、植物栽培(綿花、カラムシ、ドクフジ、タバコ、茶等)、造林(アブラギリ、ソウシジュ、キナノキ、バショウ繊維等)、移民、貸付、木材伐採事業(阿里山、太平山、八仙山、棲蘭山、鹿場大山)、鉱業(石炭)、工業(化学、アスベスト)などを行い、また広東、海南島、香港、インド、タイなどにおける事業も管理しました。

展示エリア5-運送の発展

Gallery 5,  Development of  Transportation

山地での運送

 

⼈⼒

樟脳、茶葉、木材等の原料を山地から輸送する最も直接的な方法は人力によるもので、背負って集散地へ運んだ後、船や動物あるいは鉄道によって輸送されました。清代の台北盆地では、淡水河系の水路輸送が主要なネットワークで、日本統治時代からは次第に鉄道による輸送が主となりました。

 

⽊⾺

一部の地域では、地形を克服する運送道具を人力で引かざるを得ませんでした。「木馬(きうま、きんま)」とは、2枚の板の間に長さ約30センチメートルの横木を5本取り付けたそりです。輸送する木材は横木の上に積まれ、ワイヤーロープで固定されました。木馬で運ぶには、あらかじめ敷設された幅約4尺の木馬道を使いました。約2尺ごとに油を塗った枕木が並んでおり、そりを引っ張りやすくなっていました。下り坂では速度が速くなり、ブレーキも人力に頼っていたため、少しでもうっかりすると 、運送する者には常に命の危険がありました。ほとんどの場合、1日に1回しか輸送できないため、多く稼ぎたい者はできる限り積み込みました。新店亀山の荘さんは、かつて一番重い時で3,000キログラム余りを引いたことがあるそうです。

 

トロッコ

日本統治時代、トロッコ道の敷設が始まりました。上り坂ではまだ人力に頼る必要がありましたが、下り坂では重力によって線路上を走行し、安全のためにブレーキも付いていました。貨物以外に旅客も運びました。台北盆地近辺で重要だったトロッコの路線は、主として新店~烏来、鶯歌~三峡、桃園~角板山などです。

 

水路輸送

淡水河中流から下流は流れが穏やかで、航行に適しており、台湾において陸上輸送体系が確立される以前は、台北盆地 で最も便利な交通網でした。集落間の往来に使われただけでなく、淡水河の河川港と連結し、流域の集落と島外をつないでいました。1960年代まで、淡水河は水上輸送航路として機能し、山間部の資源と河岸の商港(新荘、大稻埕、艋舺)をつないでいました。

淡水河のたくさんの支流は、大稻埕、艋舺、大龍峒といった集落の中にも流れ込み、住民の生活用水源となりました。例えば、北門の外の「河溝頭」からの水流は旧台北城内外を走り、伐木局も設立されたため、清朝統治時代後期には鉄道と接続し、水運、陸運の中継地となりました。大稻埕の「港仔溝(小規模の運河)」は、貨物を積載したまま街屋(商店兼住宅)に到達することができました。大龍峒「番仔溝」の住民は、船で大橋頭まで行けたことを今でも覚えています。しかし、これらの支流は後に都市改造によって失われました。

 

鉄道輸送

清朝統治時代に河溝頭(現在の中興医院所在地)に建てられた台北駅は、淡水河が近く、水路と鉄道を接続する使用モデルも想定していたと思われます。台北から桃園、新竹方面に至る鉄道路線は、大稻埕を通らずに現在の台北橋付近で淡水河を渡り、三重や新荘を通って南西へ延びていました。

しかし、斜度や線路設計等の様々な要因で、清代に完成した鉄道は日本政府の使用上多くの問題があったため、再測量と設計が行われました。台北市中心部の鉄道路線は、北側の城壁(現在の忠孝西路)に沿って台北城北門を回り込み、現在の中華路を通って万華駅に至り、そこから南西へ方向転換して新店渓を渡るように変更されましたが、この経路は今に至るまで踏襲されています。清代の台北駅は取り壊され、その西側に新しく大稻埕駅が置かれました。台北駅は、今日の忠孝西路、館前路へと東に移動しました。

『台湾総督府鉄道年報─大正3年(1914)年度』を参考に、旧三井物産株式会社北門倉庫が建設された当時について調べると、台北における鉄道輸送の発展状況が分かり、倉庫の用途や建設された理由を推測することができます。

展示エリア6-山林の永続

Gallery 6,  Sustainable Development of Mountains

異なるエスニック・グループによる山林資源の開発は、それぞれ要求と文化が異なることから、環境への影響も同じではありません。上記の文献から環境の変化と経緯を総括し、山林資源と空間の利用方法やその態度を振り返ると、原住民部落の自給自足の生活から、漢人が渡来して開墾し自給式農業を営み、開港後は国際市場の需要に応える方向へと進んで、日本による植民統治下では官営あるいは一部の企業による開発が行われ、環境は今日私たちが目にする姿となったことが分かります。

 

GAGA──タイヤル族の教え

イバラに囲まれた困難な生活環境にどのように対処するとしても。互いに背を向けたり、木の壁やイバラで互いを隔てたりして、付き合わない訳にはいかないよ。もし男の子がいて、成人し、所帯を持てるようになったら。慎重に各自の血筋を見極めなくてはならず、倫理を乱してはならない。ある家の女の子が成人したと聞き、縁談を持ち込みたければ、長老に頼まないといけない。わざと木の壁やイバラで隔てを作り、ご近所と仲良くしなかったら。それでは筍のように子孫が繁栄するわけがない。それから、いつか些細ないざこざが起こっても、タバコと酒で和解すること。根に持ちわだかまりを残してはいけない。たとえ皆から尊敬される長老や口が達者な者でも、舌が言うことを聞かず、口を滑らせることもあるのだから。(宋国用 2011)

Top

bottom of page